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泉橋寺へ行きました。
山城大仏は日本一の石の地蔵さんです。
泉橋寺縁起

泉橋寺縁起 泉橋寺の奥様から頂きました。
泉橋寺は国道24号線の西、泉大橋のすぐ近くにあります。
今は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀仏、一般拝観はされていませんが境内自由です。
御おっさん(浄土宗住職)は留守でした。
でも奥様にいろいろな話を伺うことができました。
戦後荒れ放題だったと言われるので応仁の乱のことかと思ったらこの戦争のことで、話をいろいろされるのでこちらが混乱してしまいます。
戦後嫁いできて今までの話が中心でした。
泉橋 天平時代、恭仁京遷都に伴い、木津川を越えて新京を造るため泉河にいくつかの橋が架けられました。
そのなかで行基が優婆塞(在家の信者)らの弟子を率いて、現在の国道24号線の泉大橋の近くに架橋したのが泉橋です。
泉橋によって結ばれた南北に伸びる道は恭仁京右京の中心道であり, 山背国府の中央道でした。
現在泉橋寺の西を真直ぐに走る道路がその名残りです。
橋は度々流失したので,平安時代には泉橋寺に渡船が備えられました。
渡船は明治時代に先代の泉橋が架橋されるまで続きました。
現在の泉大橋は戦後に架けられたものです。
泉橋寺は行基菩薩建立畿内49院のの一つで泉川架橋のために建立された発菩提院、隆福尼院を 前身とします。
泉橋院が創建された天平12(740)年は聖武天皇によって恭仁京遷都が始まった年 にあたります。
翌年には行基とその弟子達の手により泉橋が架橋されました。
恭仁京はわずか4年で 廃都となりましたが,泉橋寺はその後も木津川で命を落とした人々の供養をし,救済する寺院としての 活動を続けました。
創建時の泉橋寺は七堂伽藍を備えた立派な寺院でしたが、平安末期、 源平の合戦で平重衡の南都攻めの際に焼失してしまいました。

泉橋寺の西のお地蔵さんは日本一の石の地蔵さんで山城大仏と呼ばれます。
鎌倉時代に般若寺の僧が泉橋寺を再興し、地蔵石仏を造立しました。
これが今に残る”泉橋寺のお地蔵さん”です。
もとは地蔵堂に納まり、台座や光背を備え、今よりも少し大きく立派なお姿でした。
応仁の乱で、泉橋寺は地蔵堂もろとも焼き払われ無惨な姿になってしまいました。
江戸時代に入って頭部と両手が修復されました。
今も露坐ながら日本最大の地蔵石仏として雄大な姿をとどめています。

泉橋寺五輪塔 古来、光明皇后の遺髪塔でした。
移転の際の調査で多くの遺骨が発掘され、治承四年(1180)平重衡(しげひら)の南都攻めの折の犠牲者の供養塔として建てられたことが分かりました。
もう1基江戸時代の五輪塔があります。
五重塔址は泉橋寺の北の住宅地にあります。
礎石は売り払われて今は土地が残るだけです。
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